森の哲学者

中学生の頃、ブラスバンド部に所属していた私は、毎年恒例の夏季合宿というものに参加した。
夏休みの数日間、県内の山間部にある小学校を借り切って行われる。
比較的街中で育った私にとっては、山間部で暮らした経験がなく、「街中で飛んでいるのと『蛾』の種類が違うから絶対に触るな」とか、「夜は冷えるから注意しろ」とか、さんざんに事前知識を叩きこまれた記憶がある。
合宿した学校の周囲は、特に観光地でもないが全体的に緑濃く、多少標高が高いせいか、確かに夜になるとスッと気温が下がり、エアコンは不要だった。
そして、なぜか男女ペアになり「肝試し」と称する夜の散策があった。
実は通り道に先輩がお化けの恰好をして驚かすというだけのものだったが、夜になると車の音もせず、街灯も少ない環境は結構恐怖感があった。
耳を澄ますとフクロウの声がする。


【呼べば返事をして走ってくるアナホリフクロウ】 Owl came to me

「森の物知り博士」「森の哲学者」などとして人間に親しまれている
昨今のブラスバンド部は大半が女の子になってしまった感があるが、私の頃はまだ男も三分の一位はいた。

人里に近く、よく人間の手によって計画的に手入れされた森、人の影響を受けた生態系を有する森を里山と呼ぶ。
人の住んでいる地域から離れ、人間の影響をほとんど受けていない「深山」の対語とされる。
単に人里に近いから「里山」というわけではない。


里山 (Satoyama)

昨今成長が早く生命力の強い孟宗竹が森林に侵入して、森林の「竹林化」という現象が起こったり、里山は完全に放置される場合が多く、本来の極相に戻りつつある地域も多い。
極相とは、何もせずに放置した場合に、ある一定の状態で落ち着くことを言う。
里山からは、薪炭採取という大切な役割があったが、薪を採るということが少なくなってきた。
松茸や栗など高価なものが取れる森ならまだしも、一般的に入会も減ってきた。
里山が荒廃していくのを見るのはつらいことだ。
里山の荒廃は、近くに住む我々が荒廃しているように見えてならない。

里山のほとりには田んぼがある。
田んぼは、カエルやドジョウなどのエサを育み、トンボの幼虫ヤゴやホタルの幼虫、オタマジャクシなどが棲み、それらのエサとなるカワニナがいて、そこに里山に住む鳥たちがエサを求めてやってくる。
フクロウは9月から11月が巣立ちの時期だ。
それまでに、親から狩りの方法をみっちり教わるのである。

フクロウは夜行性である。
日が暮れてから夜明けまでの間、「森の哲学者」として森の空気を読み、何を考えるのだろう。
ジャズは、もともと西洋楽器を用いた高度な西洋音楽の技術と理論、およびアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感覚と音楽形式とが融合して生まれたものだ。
私の偏見かもしれないが、太陽が燦燦と降り注ぐビーチや、大草原や牧場などの牧歌的な雰囲気よりも、やや古いビルの地下室などが似合うような気がする。
しかも夜がいい。
ジャズ、特にモダンジャズ以降の響きは「冷たく」「熱い」。
もともとはアフリカ系アメリカンから始まったジャズだが、次第に土臭さが消え、むせ返るような灼熱の大地から、コンクリートアスファルトの固く冷たい雰囲気を醸し出す。
マイルス・デイビスなどのインプロビゼーションもいいが、計算しつくされた白人によるジャズもまた快適である。


The Singers Unlimited - My Romance

シンガーズアンリミテッドは男性3人女性1人の計4人であるが、そもそも当初、アメリカにおけるコマーシャル媒体製作のために結成されたグループが発展したもので、人前でのライブ演奏を想定せず、それぞれのパートを重ね録りする、1人が複数パートを歌い4声を越えるハーモニーを作るなど、多重録音の技術を前提としたハーモニーを構築している。
全員が白人で、緻密に計算されたハーモニーは、声以外の楽器がないことを忘れてしまう。
というより、楽器は要らない。


Steely Dan - Aja

スティーリー・ダンは人名のようだがバンド名であり、実質的なメンバーは、ドナルド・フェイゲン (Donald Fagen) とウォルター・ベッカー (Walter Becker) のデュオといって良い。
多数の名うてのスタジオミュージシャンをレコーディングに招き、完璧主義者として寸分の音のズレも許さずガウチョ」というアルバムにおいては、何と二年半という膨大な時間を費やした。
私は「彩(エイジャ)」というアルバムを学生の頃に聞いたが、その音の完璧さに驚いた。
もちろんスピーカーもいいのだが、ぜひヘッドフォンで聞いてみていただきたい。