「傘がない」

夜も更けた頃、雨音に起こされて窓を開けてみた。
台風が近づいているらしいが、今のところ風はそうでもない。
「ザーザー」と路面を叩き付ける音、「コン、コン」と何かに落ちる音、時々車のタイヤが路面に溜まった水たまりを切り裂く音、耳を澄ませば限りない、指揮者のいないオーケストラだ。
雨音のドラムロールは、必ずしも明るい未来の訪れを予感させるわけではないが、深夜のオーケストラは、何の変哲もない住宅地に、トトロの猫バスを走らせてくれそうであ


となりのトトロ「07. ねこバス」久石譲

る。
それに飛び乗って、どこかに出かけたくなる。
ふと井上陽水さんの「傘がない」を思い出す。


傘がない 井上陽水

都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨
傘がない
 
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の街に行かなくちゃ 雨に濡れ

この歌は様々な解釈を生んでいる。
学生運動が下火になり、情熱のやり場に困った若者が、国の行く末ではなくもっと身近な問題に目を向けていいんだというメッセージだという意見もあるし、逆に自分のことばかりしか考えていない風潮への皮肉だという意見もある。
どれも本人の言葉ではないし、想像がさらに想像を生む。
様々な解釈があっていいのだろう。
陽水さんは、言葉を絵具のように使う天才だと私は思っている。
そのままでは意味が分からない歌詞が多い。


リバーサイドホテル 井上陽水 1992 SPARKLING BLUE (日本武道館)

「リバーサイドホテル」の出だしでは、

誰も知らない夜明けが明けた時

という意味不明な出だしで始まり、さらにサビの部分では

ホテルはリバーサイド
川沿いリバーサイド
食事もリバーサイド
Oh リバーサイド

意味はよく分からないのに心に響く。
意味ではなくて、言葉の色や響きなんだと思う。
「傘がない」も、天才のひらめきが生んだ傑作であろう。
確かに、発表した1972年当時は学生運動が衰退しつつあり、過激派や、連合赤軍が「浅間山荘事件」を起こし、むしろ社会からはかい離して忌み嫌われる存在となりつつあった。
一方で、ビートルズの大ファンでもある陽水さんは、「サージェント・ペッパーズ・ロ


The Beatles - A Day In The Life

ンリー・ハーツ・クラブバンド」の最後の曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の歌詞

成り上がりの奴が 新聞に出ていたよ
哀しい話で でも笑っちまった
写真を見たらさ

上の空でドライブ 赤信号に気づかず
みんなが覗き込む 見覚えのある
上院議員みたいだなんて
に触発され、ひらめいたのかも知れない。
でも本当のところはよく分からない。
ピカソキュビズム同様、論理的にはよく分からないが、素晴らしいのである。
ひょっとしたら、単に彼女の部屋に行く約束をしたのに遅刻してしまった言い訳を延々と述べているだけかもしれない。

 

 

「困っちゃうナ」を「狙い撃ち」

高校野球も終わって、プロ野球セ・リーグは広島カープが優勝して、ペナントレースは終わろうとしている。
リオ・オリンピックも、パラリンピックも終わった。
オリンピック開催前には、選手村の施設の不具合や、治安問題、ブラジルのルセフ大統領が弾劾裁判で失職など、負の部分ばかりを報道していたが、日本勢のメダルラッシュからか、すっかり影を潜めてしまった。
ブラジルは、世界第七位の経済大国であり、ラテンアメリカ最大である。
日本からも多くの移民が移り住んでおり、大変お世話になった国だと思うのだが、その観点から報道することはほとんどない。
日系移民一世の方など、きっと日本を応援してくれた方も多数いたに違いない。
1964年の東京オリンピックでは、戦後からの脱却と、世界への復帰を目指して
全てが突貫工事で行われた。


【1962年12月19日】 首都高1号線開通 ハイウエーパトロールも登場

例えば、首都高速が開通したのは1964年10月1日。日本橋羽田空港の1号線がまず1962年に開通し、銀座~芝公園の2号線、隼町~霞が関の3号線、日本橋~大手町~幡ヶ谷の4号線までの開通が1964年10月1日であった。

計4路線が完成し、総延長は31.8kmであった。
現在体育の日となっている東京オリンピック開催の日のわずか9日前のことである。
一部は用地買収の必要ない、江戸城のお堀を使って、である。


【1964年10月1日】 夢の超特急、出発進行 東海道新幹線が開業

東海道新幹線の開業も、同じく10月1日のことであった。
まだ冬には遠いが、校庭に舞うつむじ風のように、乾いた心の砂を時々巻き上げて、どこか虚しさを感じている方も多いと思う。

学校が休みとなる土日には、グラウンドで少年野球の練習が行われている。
未来の高校野球プロ野球選手を夢見て、校舎の壁に少年やコーチの声がこだまする。
高校野球の応援歌の代表的なものとして、山本リンダさんの「狙い撃ち」がある。
山本リンダさんは、もともとは北九州市の生まれである。
お父さんがアメリカ人の軍人さんで、お母さんが日本人の、ハーフである。
現在では、ハーフタレントや、完全に日本で生まれ育った外国人の方は特に珍しいということはない。
藤田ニコルさんや、オリンピックでは陸上で大活躍したケンブリッジ飛鳥さん、柔道のベイカー 茉秋さんなど枚挙に暇はない。
山本リンダさんは、アメリカ人のお父さんが、朝鮮戦争で戦死し、4才の時に横浜に転居した。
その後、小学校時代はハーフであるために学校ではいじめに遭い、近所の大人たちからも白い目で見られていたという。
母を楽にしようと、雑誌のモデルに応募したのが芸能界デビューのきっかけである。
1966年ミノルフォンレコード(現徳間ジャパンコミュニケーションズ)から


komachauna

「困っちゃうナ」をリリース、大ヒットとなった。
私もテレビなどで見ていたが、どちらかというとブリッコ系の少し舌っ足らずな感じの歌い方だった。
その後しばらくの間はヒット曲に恵まれなかったが、「仮面ライダーのお姉さん役でお茶の間の人気者となった。
1972年、キャニオンレコード移籍後第二作として、当時のヒットメーカーである阿久悠・都倉俊一のコンビによる「どうにもとまらない」を発表して大ブレークした。
へそ出しルックにパンタロンで、激しく踊りながら歌う姿には度肝を抜かれた。
子供ながらに「困っちゃうナ」から「どうにも止まらない」に頭を切り替えるには時間


どうにもとまらない

がかかった。
そのブレークに乗って発表されたのが「狙い撃ち」である。
作詞家である阿久悠さんが明治大学OBであるため、最初は明治大学野球部の応援歌として採用され、それが高校野球の応援歌として採用されるきっかけとなった。
その後もその流れに乗って狂わせたいの」「じんじんさせて」「燃えつきそう」「きりきり舞い」といったヒット曲を連発した。
やがて「ピンクレディ」へと続く「アクション歌謡」の先鞭となった。
最近では、ふるさと北九州の「北九州市特命大使(文化)」を委嘱された。
あの当時の山本リンダさんは、どういう存在だったのかと考えることがある。
当時のヒット曲の中でもおそらく異色の存在である。
やや刺激的な歌ということであれば、辺見マリさんがおられるが、激しく歌い踊るという感じではない。
奥村チヨさんもしかりである。
1960年代後半、アメリカの高学歴女性を中心に「男女は社会的には対等・平等であって、生まれつきの肌の色や性別による差別や区別の壁を取り払うべきだ」という考えのもとで開始された「ウーマンリブ」という女性解放運動が起こり、1970年には日本でも第一回ウーマンリブ大会が東京都渋谷区で開催され、男女雇用機会均等法の制定に大きな役割を果たすことになった。
これまでの女性の歌は、女性は「待つ」「我慢する」といった立場のものが多かったが、リンダさんの歌は、むしろ男性を手玉に取るような内容のものが多く、阿久悠さんは、アンチテーゼとしてこれらの歌を作詞し、世に攻撃を掛けたのではないかと思う。
リンダさんは、これを見事に具現化した。

弓をきりきり心臓めがけ
逃がさないパッと狙い撃ち
神がくれたこの美貌
無駄にしては罪になる
世界一の男だけ
この手に触れても構わない


狙いうち  山本リンダ