「『いちご白書』をもう一度」というバトン

時間は一瞬たりとて止まることはない。
常に川のように流れ、例えば親・子・孫のように、一人の体の中に、両親の持っている遺伝子というバトンを受け取り、エッセンスを残しつつ、また周りの環境を取り込みながら、新たな人間として生まれてくる。
両親もその祖先から同じように情報を受け取りながら、新しい命として誕生した。
「ニワトリかタマゴか?」の論争の結論を待たずとも、少なくとも、今、私はこの世にいる。
そして、両親からのバトンを受け取っている。
これだけは否定のしようがない。
学生時代に古文で学んだ、方丈記の一節をふと思い出す。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
作者である鴨長明は、当時は京の都の郊外であった、現在の京都市伏見区日野町に一丈四方の狭い庵を建て、そこに隠棲し、その狭い空間の中から時代の風を読み、その時代の証言者となる、方丈記を執筆した。
これも非常に重要な、時代のバトンである。
先日テレビで、ばんばひろふみさんが、懐かしいヒット曲「『いちご白書』をもう一度」を熱唱しているのを見た。


ばんばひろふみ「いちご白書をもう一度」

「懐かしい」という言葉を使ったのは、私の中高生の頃に聞いていた曲が、最近では「懐メロ」番組で相次いで仲間入りしているという現実がある。
「懐メロ」ではなくて、今も生きている曲だという思いと、それを受け入れなければという思いが複雑に自分の中に内在して葛藤しているからだ。
私のリアルタイムはすでに「懐メロ」か、との思いを感じることが増えてきたからだ。
最近のばんばさんは、オリジナルキーから少しキーを下げて歌っているようだ。
カラオケでこの曲をオリジナルキーで歌おうとすると、意外にキーが高い。
でも、ばんばさんの曲は「SACHIKO」とともに私の青春時代を彩る一曲となっている。
最初にこの曲を聞いたときは、単に
昔「いちご白書」という映画があって、二人で観に行ったね。
あのときの映画をまたやるよ。
僕は就職が決まって、長かった髪を切ってルーキーになったんだ。
もう少年じゃないから、現実を見なくちゃね。
映画のポスターは、風雨にさらされて破れかけてるね。
なんだか時間の流れを感じるね。
といった表面上の解釈しか出来なかったのに、当時は分かったつもりで自己満足していた。
私の一世代前の方でなければ本当には分からないかも知れない。
そもそも「いちご白書」とはなんだろう。
アメリカ人作家ジェームス・クネンによるノンフィクション作品で、コロンビア大学での学生運動の体験がもとになっている。
当時の学部長ハーバート・ディーンが「大学の運営に関する学生の意見は、単に学生たちがいちごの味が好きかどうかというくらいの取るに足らないものだ。」という発言に由来する。
学生運動は日本にも飛び火した。
日本でも学生運動は、大正デモクラシーの頃にはその萌芽があり、さらに遡ると学生運動ではないが、江戸時代末期の「ええじゃないか」もそうかも知れない。
学生集会へも参加した当時の学生が、就職という人生の一大転機を迎えたときの心の葛藤をおもんばかると、多くの方は、心の片隅にその思いをしまい込んで就職していったことだろう。
「もう若くないさ」という歌詞の中に、全てがあるような気がする。
最初に映画を見たときから、それほど時間が経っていなくても、自分や時代や周りの環境が変わって、再び同じ映画を見るときの、過去の自分との違和感や、あるいは心にしまい込んだあのときの熱情を思うと、「また観たい」と考えるだろうか、それとも「止めとこう」と思うだろうか。
学生運動そのものは下火になっているが、この歌が音楽に乗せて、その時代を伝えてい


Olympics land  great baton pass ... bolt, Gatlinburg evaluation<五輪陸上>素晴らしいバトンパス…ボルト、ガトリンが評価

る。
バトンは渡された。
その時代を実際に学生として生きた人でなければ、パッとは分からないかも知れないが、時代の証言者として、連綿と歌い継がれている。
河村隆一さんや、五木ひろしさん、内山田洋とクールファイブなど多くの方がカバーしている。
ちなみにこの曲を手掛けたユーミンは、学生時代に青山学院大学の生徒と付き合っていて、青学から渋谷まで歩いた思い出がもとになっていると語っている。
ユーミンの曲の中で、学生時代の思い出をつづった曲には、他に「卒業写真」「あの頃のまま」などがあり、いずれも歌い継がれる名曲である。


荒井由実 + ハイファイセット - 卒業写真


あの頃のまま