「よしかわく~ん」

もうすぐ運動会なのだろうか、近所の学校では披露するダンスや綱引きの予行演習がされて、子供たちの黄色い声が反響している。
今の親御さんは、いいカメラやビデオ機を持っているので、わが子の姿を鮮明な動画で撮影することができる。
また、スマートフォンには動画撮影機能や、かなり鮮明に撮影できるカメラ機能があるので、カメラすら必要ない。

隔世の感がある。
事故現場など視聴者がスマホで撮影したものがテレビなどで流され、臨場感を伝えている。
私の子供の頃は、良くて8mmフィルムで、たいていはカメラで、それももちろんフィルム式である。
たまに父兄の誰かが、フジカシングルー8なるものを持っていたら、それは垂涎の的だった。


1965年東京の小学校運動会

縦長のあのフォルムがかっこよかった。
扇千景さんの「私にも写せます。」のTVコマーシャルが懐かしい。
でも価格が高く、よほどの金持ちか新しもの好きでなければ持っていなかった。
子供はあっという間に大きくなる。
核家族が進んで、一人の子供に対するお金の掛け方も変わってきたのだろう。
やがては巣立っていくわが子を撮影したいと思うのは人情だろう。

子供はすぐに大きくなり、大人予備軍とでも言うべき世代、つまり中高生や大学生となる。
それをメインテーマとして作成されたのが「青春ドラマ」である。
日本テレビ系列で、昭和40年から放送が始まった様々のシリーズは、夏木陽介さん主演の「青春とは何だ」に始まり、竜雷太さん主演の「これが青春だ」「でっかい青春」浜畑賢吉さん主演の「進め!青春」、東山敬司さん主演の「炎の青春」と続くのだが、残念ながら私が4才から8才の時期で、ほとんど記憶にない。
調べたところ、最初の三作まではいわゆる熱血漢の教師と生徒との物語である。
浜畑賢吉さんあたりから、ちょっと抜けているけれども憎めない教師像へと変化して、以降、このスタイルが踏襲されていく。
私がはっきりと記憶しているのは、現千葉県知事の森田健作さん主演「俺は男だ!」


【俺は男だ!】さらば涙と言おう〈昭和46年〉 / 森田健作〈当時21歳〉

らである。
森田健作さん演じる小林公二と、アメリカからの帰国子女で頭脳明晰な早瀬久美さん演じる吉川操を中心に描かれるこのドラマは、「ウーマンリブ」打倒のために、小林公二が剣道部を立ち上げ、バトン部の吉川操と軋轢を繰り返しながらも、次第に理解しあってゆくさまをコミカルに描く。
小林公二が「よしかわく~ん」と吉川操を呼ぶ声が懐かしい。
ドラマの主題歌も森田さんが手がけ、「さらば涙と言おう」もヒットした。
続く村野武範さん主演の「飛び出せ!青春」は、青い三角定規が歌うテーマ曲の


太陽がくれた季節 青い三角定規 1972

「太陽がくれた季節」が大ヒットして、紅白歌合戦にも出場した。
メンバーのひとりである西口久美子さんは、時々テレビに登場して、この歌を歌っている。
この曲は、やがて小学校・中学校の教科書にも取り上げられ、世代を超えて歌い継がれている。

君は何を今見つめているの
若い悲しみに 濡れたひとみで
逃げてゆく白い鳩 それとも愛
君も今日からは 僕らの仲間
飛び出そう 青空の下へ

たまに「逃げてゆく白い鳩 それとモアイ」などと言っている方もおられるようだが、私は子供の頃「太陽がくれた季節」を「太陽隠れた季節」と真面目に間違えていた。

その後、再び森田健作さんの「おこれ!男だ」を挟んで、中村雅俊さんの「われら!青春」へと続く。
挿入歌である「ふれあい」がミリオンセラーを記録したが、視聴率には思うほど結びつかず、半年で終了となった。
ここでは少し路線転換して、教師と生徒ではなく、若者たちがともに悩み、成長していく物語となっている。


俺たちの旅 番宣

オープニング曲は中村雅俊さんの「俺たちの旅」、エンディング曲もやはり中村雅俊さんの「ただお前がいい」であった。
両曲とも小椋佳さんの作詞作曲である。

背中の夢に 浮かぶ小舟に
あなたが今でも手を振るようだ
背中の夢に 浮かぶ小舟に
あなたが今でも手を振るようだ

小椋佳さんの歌詞は、美しくも難解で私の解釈は間違っているのかもしれないが、手の届かない淡い恋心を、究極まで突き詰めて昇華させたというべきか。
「夢のなかのあなた」に声なき声を伝えたいけれど伝えられない。
「夢のなかのあなた」へと続く道はとても遠く険しい。
「夢のなかのあなた」を思う心の輝きは、あれほど幻想的な光を放つも一番星の出現とともに消えてしまうほどに短く不安定で、すぐに崩れそうだ。
「夢のなかのあなた」を思う時間は、一瞬が永遠のようにくすぶり続けている。
「夢のなかのあなた」が小舟に乗っている私に手を振っているようだ。
各節の最後が、「・・・ものなのです。」となっており「夢のなかのあなた」に語りかけ、サビの部分では、「あなたが今でも手を振るようだ。」と自分に対して夢を振り返っているように思える。
「背中の夢」は、「夢のなかのあなたとわたし」を見つめるもうひとつの目が見たもの。

次は勝野洋さん主演の「俺たちの朝」である。
太陽にほえろ!のテキサス刑事役を降板した勝野さん初のドラマ主演だった。
この作品も、「俺たちの旅」同様評判がよく、一年間に延長された。


俺たちの朝 松崎しげる

私もすでに高校生になっていたので、江ノ電、特に極楽寺駅に出かけた記憶がある。
1960年代のモータリゼーションの波を受けて乗客が激減し廃線の危機にあった江ノ電を、このドラマの成功が救ったという。

以降、「俺たちの祭り」「青春ド真ん中」「ゆうひが丘の総理大臣」「あさひが丘の大統領」「日当たり良好」へと続く。

あの当時の「青春ドラマ」とは何だったのかと考えてみると、それ以前の映画やテレビの対象はほとんどが大人向けであった。
戦争が終わり、不自由な暮らしから解放され、がむしゃらに働いて、稼いで、家や車を買って、少しでもリッチな生活を送ることに国民全体が向いていた。
その熱い思いは、乾いた砂に水を蒔くように、あっという間に吸い込まれてしまう。
「モーレツ社員」などと呼ばれていた。


1960年代 CM TOYOTA トヨタ クラウン (2・3代目)

1950年代の三種の神器と呼ばれる「テレビ」「洗濯機」「冷蔵庫」はほとんどの家庭に普及、一般化して、さらに1960年代の高度経済成長期には、新三種の神器として「カー」「クーラー」「カラーテレビ」が国民の次の目標となった。        
国民が常に同じ方向を向く必要性は少なくなってきた。
すでにある程度の「三種の神器」が揃い始めた時代に私の世代は育った。
いわゆる「多様化」の始まりの風を敏感に感じ取った大人たちは、各世代向けの番組を作り始めた。
そんな中のひとつに「青春ドラマ」もあったが、夜8時台いわゆるゴールデンタイムにこれをぶつけてきた
ここがポイントなのではないかと思う。

 

「8時だヨ!出発進行」

近所の学校のフェンスに、おそらく学校が植えたものと思うが、間もなく10月になろうとしているときに、へちまの実ができ始めていた。
へちまに限らず、キュウリやゴーヤなどのうり類は、ツルを延ばして生い茂り、盛夏の時期には天然のカーテンになる。
しかし太陽が傾いてきて、気温が下がってくるこの時期には、ある意味無意味にも思える。
だが、子供たちの中には、植物の生命力の強さや、逆に命の尊さを学ぶかも知れない。
その意味では「糸瓜の皮とも思わず」とは、まったく問題にならないという意味だが、意味のない生命はない。
戦時中、特に猛獣が空襲などで暴れまわる危険から、殺されてしまった動物たちのことを忘れてはならないだろう。
驚いたことに、その当時は一般家庭の飼い犬までが殺処分の対象になったとのことである。
当時の少年少女たちは、いかに傷ついたことだろう。

昨今では、弁護士や大学教授、医師などがテレビのバラエティ番組に出ることは、特に珍しいことではなくなった。
おそらくかなりプライド高い人たちだと思うのだが、最近では、東大や京大出身の芸人さんなどもいて、職業の垣根が低くなっている気がする。


東進ハイスクール「いつやるか?今でしょ!」CM

最近あちこちの番組で見かけるのは、何といっても、「いつやるか?今でしょう。」林修先生であろう。
先日はテレビの通販番組に出演しているのを見たときはさすがに驚いた。
東進ハイスクールの現代文講師であるが、何とナベプロ所属の芸能人でもある。
名古屋に生まれ、現在も名古屋に在住し、「本を読むこと」と「食べること」の毎日で、東大入学の頃には体重100キロを超えていたという。
長期信用金庫に入社するも、半年で退社。
その後、様々な商売に手を出すもうまくいかず、借金は1800万円に達したが、予備校講師に転身した。
私には、その借金の額はとても想像できないが、様々な商売を失敗する中で、きっと何かをつかんだのだろう。
かなり激しい試練であったが、その体験は、今に生かされている。
今の親しみやすいキャラクターの中には、大きな苦労が隠されているんだなあ、と思う。


なつかしい 8時だヨ! 全員集合 オープニング

皆さまの多くは、8時だヨ!全員集合すらかなり過去の話になっていることだろう。
ザ・ドリフターズ主演のTBS系列の看板番組であった。
1969年10月4日から1985年9月28日にかけて、毎土曜日に放送されていた。
ところが、1971年4月3日から同年9月25日の半年間、この番組は一旦休止されている。
ザ・ドリフターズが、日本テレビ系の『日曜日だョ!ドリフターズ!!』に出演することと


この際母ちゃんと別れよう

なり、半年間の空白を埋めるため、先輩格である、クレイジーキャッツ「8時だヨ!出発進行」という番組を行っていた。
シャボン玉ホリデー』で一躍渡辺プロをお茶の間に広めた日本テレビに対する恩返しとして、渡辺プロが半年限定で日本テレビに渡した、という説もある。
番組を作るスタッフは、全員が「全員集合」のスタッフが横滑りしたという。
この番組が始まった頃、私はまだ10才に過ぎず、残念ながらあまり面白いとは思わなかった。
番組内容もドリフの焼きまわしのようだった。
でも番組プロデューサーは「映画やテレビドラマの主役ばかりをやっていた植木等が、この番組のために汗まみれ、泥まみれになって仕事をしてくれたことに今でも頭が下がる思いがする」と述懐している。
YOUTUBEなどにもあまり資料がなく、ハナ肇が個人的にビデオを撮っていたものがある程度なのだそうである。
今のように、DVDやブルーレイレコーダーなどなく、ビデオレコーダーも高価で一般家庭に広まっているような状況ではなかった。
おそらく、クレイジーキャッツにとっても試練の時期だったのかもしれない。
ザ・ドリフターズコント55号など、新進気鋭のお笑いブームが津波のように押し寄せ、「シャボン玉ホリデー」のような、あまり下ネタに走らず上質な笑いを提供してきたクレイジーキャッツとは、時代の合わなくなったのかも知れない。
でも彼らは本物だった。
1990年、クレイジーキャッツのヒット曲をオムニバス形式でつなげた「スーダラ伝説」が大ヒットし、再びブームとなった。


クレージーキャッツ メドレー

数々の特番が放送されたり、植木等さんは自身の冠番組である植木等デラックス」も放送」された。
植木等さんも名古屋市生まれである。